何ということもなく買って読んだ久世光彦の「簫々館日録」は、非の打ち所のない優れた文章で、しみじみと大正から昭和へ移り変わる東京の文壇挿話を描いてみせていた。
舞台は本郷弥生坂の小島貞二郎宅とおぼしい借家。語り手は幼いながらすでに一人前の女の感性を身に付けている娘で、岸田劉生の麗子像がそのイメージになっており、漱石の吾輩は猫であるの猫役を務めている。出入りするのは芥川龍之介を中心に菊池寛や中央公論記者その他の文壇仲間なのだが、彼等がその才能を高く評価する芥川が睡眠薬に溺れ,いつか破局に至るのではないかと憂いている。
話が始まるとほどなく大正天皇が崩御される。そのなかで芥川役の九鬼が語る「明治が終わったと思ったら、大正ももう終わりか。寂しいね。麗子ちゃん。」
「大体明治が長過ぎた。どこの国でもーそう支那でも英国でも、偉大な王様や皇帝が長くつづくと、その後にくるのは、決まってどこか僻みっぽくて,腰の落ち着かない短い時代ということになっている。
stage 4
ノスタルジーこそ明日なのだ

            本郷弥生坂にたたずんで

      

幕が開いたら、もうホリゾントは、大詰め近い夕焼け色だったというわけだ。大震災に枯れすすき、ジンタの音は美しき天然、アナーキズムと花柳病が競うように花開いてー僕は、そんな大正という時代が好きだった。南京花火みたいに怪しげで、きな臭い時代が恋しかった。ねえ、麗子ちゃん。君の赤い銘仙は、大正の誇らしい色だ。どんな色よりきれいな、時代の色だ…」私のように大正末期に生まれたものには、何か身に沁みる語り言葉である
ここに出てくる貧乏文士のグルメを拾ってみる。弥生坂上の藪そばの天ぷら蕎麦、坂中の長寿庵のキツネうどん、本郷1丁目の八澤川の鰻蒲焼、銀座の帆掛鮨、本郷通りの魚久の小鰺、さより、日本橋の三橋堂の亀の子饅頭、鎌倉駅前の豊島屋の鳩サブレー、湯島天神のカルシウム煎餅、根津神社縁日の氷いちご、弥生坂下のエスポアールのアイスコーヒー、両国の鰯の塩焼、酒は越寒梅。しるこは上野の常磐、柳橋の大和、日本橋の梅村、浅草の松村。案外といおうか、当然というか、今に続く庶民グルメ。コーヒーにはまだ高級感があったと見え、こんな対話が…「近世以降、珈琲はおよそ文芸に携わる者にとって不可欠の飲み物になった。小説家は珈琲を飲んで白昼夢を追い、夢うつつのうちに恋する女の濡れ濡れと輝く瞳を描く。バルザックは、そのために一晩に二十杯の珈琲を飲んだ。」「ヴォルテールは四十杯だ。」
 原稿用紙は日本橋の榛原、万年筆はペリカンというのは、これに適当なワープロソフトを加えれば、それほど古くはなっていないかも。睡眠薬のアダリン、プロモコル、アヘンエキス、ホミカ、ヴェロナール、カスカラ、ジャイール、アロナールロッシュが、今どれほど使われているのかはさっぱり判らない。「女と死ぬなら帝国ホテル」だなんていわれたら、どんな顔をしていいか判らなくなってしまうのだが、しかし、古渡り唐桟の着流しをきめてそういわれたら、思わず納得してしまうかも…
生活変化の大津波がまたまた私たちを呑み込み、さらにすべてが止めどもなく変わろうとしている今、その未来の分量が多ければ多いほど、それと同量の過去をもつ必要にせまられているのではあるまいか。ノスタルジーにのめりこむことこそ、今必要にして新鮮。

  ファッションパイオニア大正美人

林きむ子@ 林きむ子A 乗馬する林きむ子
文芸春秋社の「大正美人伝・林きむ子」の著者、森まゆみは、マチコミ誌きってのブランド、「谷中・根津・千駄木」のエディターで,明治大正人物論を中心に著書の多い注目ライターでもある。今回彼女が脚光を当てた林きむ子は、九条武子,柳原白蓮と共に明治大正の三美人の一人であり、弁護士夫人、江木欣々と共にサロンの女王とも呼ばれた。中村汀女、荒垣秀雄、徳川夢声、渋沢秀雄など当時一流の文化人も折り紙をつけているから、その名声は単なる浮き名ではないようだ。明治以降の美人は、維新元勲を支えてその夫人になった名妓がまず脚光を浴び、続いて芸能界が注目され、婦人雑誌が登場してから名流夫人がグラビア頁の主役にデビューした。きむ子はその中心スターの一人だった。ところでその観察者の一人、新編近代美人伝(岩波文庫)を書いた日本橋生まれの長谷川時雨はみずからも美人で、数百人の美女列伝を書いたというから、これまたギネスものではなかろうか。    
林きむ子は明治17年に生まれ、昭和42年まで82年を生き抜いたが、その母親は群馬県松井田に生まれ、東京でに出て当時人気沸騰の女義太夫語りとして脚光を浴びた。柳橋に生まれたきむ子は、新橋一流の料亭として、後の待合い政治の源流になったという「浜の家」の養女に迎えられた。維新後、東京きっての三業地柳橋が成り上がりの薩長を嫌ったので、新橋が政府要人の夜の砦になった。そのなかで浜の家は、明治以降この上はない右翼の頭領、頭山満やその一の子分、杉山茂丸が居続けていた名門で、その後を継ぐ養女になったきむ子は、芸事から文芸まで厳しく叩き込まれた。しかし彼女はその道を捨て、群馬県藤岡出身の少壮実業家、日向輝武と結ばれてしまう。
日向はアメリカに留学したクリスチャンで、ハワイへの移民事業で成功し、さらに新事業を推進した。二人の新居は、芥川龍之介、堀辰雄、萩原朔太郎などの若手作家が移り住んだ当時の新興郊外地の田端で、夫の趣味で蛇を飼っていたところから蛇御殿と呼ばれていた。彼女は山ほどの家事をこなしながらもさらに小説を書き、子連れ主婦による新真婦人会を結成して、平塚雷鳥の青鞜社と競い合うという社会活動まで推進した。そこで彼女は幼時から身に付けてきた伝統の音楽、舞踊、茶道、華道に加え、乗馬、洋画、仏語、さらには柔道まで身に付けていく。事業の関係で外人との交際が多かった彼女は、洋装を着こなし、化粧でもコティの初期の愛好者でもあった。こうして彼女は、良き妻、良き母として明治末期から大正初期を生き、わが国洋風化の先駆者にもなったわけで、わが国ファッション化進展を語る時、こういうパイオニアの業績にもっと脚光を当てるべきと考えられる。
幸福は何時までも続かなかった。やがて政友会(後の自民党)に属して国会議員にもなった夫が、疑獄に巻き込まれて失脚、狂死するという大きな挫折に直面する。しかしそのような不幸にめげず、6人の子供を抱えて彼女は池之端仲町通りの借家で、彼女の考案になるオロラ化粧液の販売を始め、その2階で一中節を教えて、その美貌に憧れる谷崎潤一郎などが詰めかけた。そして彼女は夫の死後、化粧液事業で知り合ったはるか年下の薬剤師、林柳波と再婚する。天下第一等の美貌なら玉の輿はいくらでもあったろうが、再婚でも彼女の恋愛至上が貫かれたのだった。柳波は群馬県沼田に生まれ、本名は照寿。どうもこの話には群馬と東京が付いて回る。
こうして広く美貌を唱われたきむ子は、柳波の経営する巣鴨の薬屋の女房になるのだが、家計を助けるために舞踊の出稽古をするようになり、柳波が起こした製薬会社が成功して小石川西丸町の家を買ってからは、六畳の座敷を潰して稽古場をもった。彼女は11歳の時から西川流を学び、西川扇紫の名を許されていたが、日本舞踊の現状に満足せず、独自の境地をめざしていた。ところでこのころの彼女の好みを、大正8年4月号の婦人公論から拾ってみる。「髪はふんわりとした束髪が好き。夏はきりりと結う。日本髪では輪の大きな銀杏返しと人の結わない紫天神。服はあまり光らないもの。ちょっと身には単純で、底の方に複雑な交通のあるようなもの。好みの柄は大名島、雨がすり、小紋など。半衿は面白い色の無地など。色は紫の類はたいがい好き。緑も。少し使うなら夾竹桃、オールドローズ。履き物は吾妻下駄。好きな美人はオペラ女優のクレオード・メロード。昔見た美人では新橋の高丸。」洋風化忍び寄る江戸趣味といえようか。
8人の子供を抱えて奮闘するこの夫婦に新しい時代の息吹をもたらしたのは、作詞家の野口雨情だった。彼は旧弊な道徳的唱歌に飽きたらず、わらべうたや民謡を発掘して、子供の歌に新風を巻き起こす運動の先頭に立っていた。大正中期に始まる新しい児童教育運動はインテリ市民層に支持され、私もそういう教育を受けて育った一人なのだが、その先駆けは鈴木三重吉が大正七年に創刊した「赤い鳥」である。質の高い児童文化をめざしたこの雑誌から、北原白秋の「雨」「赤い鳥小鳥」西条八十の「かなりや」が生まれ、新童謡の先駆になった。雨情は赤い星に対抗して生まれた「金の船」のちの「金の星」に属し、「十五夜お月さん」「七つの子」「青い眼の人形」「赤い靴」「しゃぼん玉」「黄金虫」「俵はごろごろ」などのヒット作を相継いで発表していた。これらを不朽のものにしたについては、その作曲家、本居長世の名を忘れることはできない。
製薬が専門だった柳波はやがて作詞を手掛けるようになり、きむ子は新童謡の振付に熱中し、大震災の翌年の大正14年、なおも至るところが焦土だった東京の何と帝国ホテルで、「童謡舞踊作品発表会」を開いている。そのような新児童舞踊を推進しながらきむ子は、古典舞踊の新作にも意欲を燃やし、その数三百に及ぶというから凄い。しかもそのなかにはダンテやテニスンからも曲想を得、ピアノ、オーケストラの伴奏まで使っていたというから、古典若返りに燃やした彼女の情熱が偲ばれる。維新後三代を代表するこの美女が、醜い男や老婆に扮することを好んだのも面白い。第二次大戦も彼女の強靱な肉体、精神を傷付けることはできず、苦境を生き抜き、昭和47年、日本舞踊協会葬によった82歳の生涯を閉じた。        
林家にはT・Kのイニシアルのついた革のトランクが残されているという。彼女の二人の夫が同じイニシアルなので、どちらのものか判らない。ベルリン生まれの稀代の美人女優マレーネ・ディートリッヒはかって、ドイツとソ連によって永らく抑圧されてきたベルリンに残してきたトランクのことを歌ったことがあった。彼女はそのなかに「自由」を置いてきたと歌った。林家のトランクには何が入っているのだろうか。それは、稀代の日本女性への尽きせぬ憧憬なのではあるまいか。
 
群馬の川風に誘われて

正美人、林きむ子の母親は松井田、最初の伴侶の日向輝武は藤岡の産、二番目の林柳波は沼田の生まれ。「かかあ天下に空っ風」というけれど、男が尻に惹かれるのをあえて耐え忍ぶほど群馬は美女の源泉であり、その美女が心惹かれるほど群馬の男は優れているということなのだろうか。証拠不十分の嫌いはあるが、そんなことを考えていたら、桐生の高橋和夫氏から、柳波の故郷、沼田の美女が、ノスタルジックなコンサートを前橋文学館で開くという知らせがあり、早速探訪に乗り出した。

前橋文学館に萩原朔太郎に並んで作品が展示されていた歌人、角田蒼穂は、大正14年に上京する朔太郎のために、送別マンドリン演奏会を催したという。広瀬川のせせらぎに耳を澄ませば、そのノスタルジックなマンドリンの音が今なお聞こえてくるようだ。  
 
広瀬川は流れて止まず 萩原朔太郎像
  
糸賀真知子さん ノスタルジックなお仲間
今回のコンサートを主宰した糸賀真知子さんは群馬大学音楽科の出身。日本クラシック音楽コンクールやベストプレイヤーズコンテストに入選、故郷の沼田に夢詩歌音楽教室を主宰し、女性合唱団野ばら会の指揮を取っておられる。96年から毎年、「美しい日本の歌」と題するコンサートを開き今回に至った。いかにも林柳波の故郷にふさわしいご活躍である。
今回のピアノは東京芸大大学院、ミュンヘン音大大学院を卒業した柴田真由美さん。曲目は花嫁人形、浜辺の歌、朔太郎の詩による歌曲、谷川俊太郎の「ほうすけのひよこ」など、ノスタルジックな情感に包まれていた。親しい年来のお友達が集うコンサートだけに、ここだけは不況の風も避けて通っている感があった。あわせてひらかれていた糸賀さんのキモノコレクション展示も興味深く、特に昭和モダンのグラフィックを染めた襦袢は面白く、ピンクに花開く日傘は恐らくはパリ土産か、印象派絵画の幻想であたりを包んでいた。思い思いのキモノで集まるこのような集いは、もしかすると時代の先端なのかも知れないのだ。
昭和モダンの襦袢 印象派の絵のような日傘

ありらでもこちらでも
私と同じ高校出身の今井俊博君が経営する、目白の「ゆうど」からメッセージが届いた。彼が店のために借りた目白駅近くのこの家の庭には今なお井戸があり、井戸を意味する地方訛、ゆうどを店名にした。ノスタルジーの水が今なおこんこんと湧いているという事かも知れない。メッセージには「中也や二郎や秀雄クン、そしてポールヤボーヴォワールさんも呼びますか。」と、大正、昭和初期ゆかりの名前が並んでいる。その名がすらすらと全部判れば、ちょっとした物知りだろう。鈴木江以子さんの近代日本の布コレクションと笠井秀雄さんの再生ガラス器の新作展をお見せするという。「大正生まれのリベラルなおばあさんと衣遊び、器遊びしませんか?!リベラルに暮らす、食べる、着る。モダンに。あなたにイチバン近い昔です」と呼びかけていた。
今井君は全国のクラフトマン、さらには熱帯雨林アジアにまで呼びかけて生活クラフト運動を繰り広げ、毎年玉川高島屋でスケールの大きなクラフト展を開催しているパワフルなオーガナイザー。もともとノスタルジービジネスを推進しているわけだが、今回はそれに大正レトロの情緒にまぶしてお見せするという趣向になった。夕暮れからの催しはフルーツポンチで始まり、お世話をする彼女たちは、ノスタルジックな割烹着を付けているという、なかなかなの趣向だった。

ゆうどからの案内 ゆうどの集まり

アンティクショップを一つのビルに結集する「アンティークモール銀座」が、銀座一丁目にオープンした。銀座大通りの近鉄メルサの角から東へ入って、昭和通りを超えたほぼ突き当たり。これ以上狭い間口は考えられない細長いビルの1階から9階まで、小さいアンティックショップがぎっしり詰まっている。和洋骨董を扱っているが、西洋アンティックの小物類が特に魅力的。ウィークデイでも中年女性を中心になかなかの賑わい。オークションも開くという。「何でも鑑定団」などのレトロ人気が生み出した、東京新名所のっぽビルである。そのうち身動きできないほどの雑踏になるだろう。

 
アンティクモール銀座 西洋骨董@ 西洋骨董A


年中ユカタを楽しむという驚くべき発想
今は昔、1960年代末期に、「燃えてる京都」と呼ばれる時代があったことなど、今の若い人たちは知らないかも知れない。そこにはロックミュージックが炸裂し、本場のヒッピーが相継いで店を開いたりした。ファッション革命めざして猛進していた東京にとってそういう京都は、無二の同盟軍だったのだった。そのころから新装大橋の大橋英士氏は、自宅で毎週金曜にフライデイという名のサロンを催してサロン時代に先駆けたりして、ちょっとした注目株だった。しかし、物腰静かな細面の、いかにも室町のぼんぼんといった風情のこの男が、キモノ革命のリーダーとしてここまで目覚ましい活躍を見せようとは、誰が見通すことができただろう。もともと新装大橋は、着付けの難しい帯を簡単に結べるようにするということでデビューしてきた企業なのだが、後継者の彼は、その段階を軽々と超えて、21世紀キモノ時代全体をリードしている。その軌跡を一言でいえば、撫松庵ニューキモノ24年、ながもち屋古着リサイクル16年、ユカタ革命15年のキャリアである。

        
    
四季のユカタ@ 四季のユカタA 四季のユカタB

    
  
四季のユカタC 四季のユカタD

わが国の伝統衣装がいかに素晴らしいものではあっても、高級シルクによる精緻を極めたものということでは、多くの国民にとっては所詮高嶺の花、冠婚葬祭の折りの貸衣装ということになってしまう。それではキモノに関心がないかというとそうではない。そうなると伝統染織を守る試みと並行して、キモノを楽しむ新しい大衆的な方法を考えなけてばならないのは当然の成り行き。その課題に答えたのが、ポリエステル生地でコストを抑えた撫松庵ニューキモノの登場だった。それは比較的廉価というだけではなく、大正ノスタルジー、昭和ロマンを思わせる魅力的なデザインだったこともあって、断然ヒットした。老舗の市田が呼応して競争したことも、マーケットを早急に広げるのに有効だった。ニューキモノの売り場は全国の百貨店に広がった。
キモノサバイバルの狼煙を上げた大橋の第2弾は、伝統古着を委託販売する「ながもち屋」、当初様子見していた業界は、成功間違いなしと見て相継いで参入、その売り場は百貨店を中心にこれまた全国に広がった。古着といってもこのながもち屋のケースは、質流れなどの古物や骨董価値を売る従来の古着屋とは異なり、売り手のお宅に伺って値を決めて預かる委託販売である。商売に駆け引きがなく安心して売買できる全国の家庭には、おびただしいキモノが眠っている。キモノを財産と考える風習は衰えたが、想い出は容易に手放せない。しかし団塊世代が家族財産処分の主導権をもつようになって様子が変わった。いたずらに死蔵しておくのではなく、欲しい人に使ってもらった方がキモノが活きるという考え方である。阪神大震災がその気運に拍車をかけた。お客の在り方も変わってきた。他人が手を通したものという抵抗感は薄れ、ただ廉価というだけではなく、古いものには新品にはない独特の味があるという評価眼が磨かれていった。た。この認識はキモノに止まらない。古着の洋装に新品にない味を見出す顧客が増えた。そこから、新品に古着を加えて売る洋装ブティックも登場。新旧一体という感覚が、古着キモノのビジネスにとって嬉しい追い風になっている。新品が古着としてマーケットに循環することは、ビジネスを維持しながらエコロジーにも貢献するという一挙両得なのである。
このようなノスタルジーへの開眼が、ここ数年のユカタブームを牽引したのは当然の成り行きだった。伝統の注染が高コストで敬遠されていることは残念なことだが、コットンプリントで値が安い。着付けも簡単。綿より吸汗性が高く涼しい新合繊も登場して、表現の幅が広がった。伝統の畳み方を習って海外のホームステイ先で披露すれば、オーマジック!と喝采されて、日本文化の発揚にもなる。夏の花火大会で着ることに始まってTPOは広がっていった。裾丈を長くし、長襦袢も半襟も帯も揃えて、結婚披露宴に着ていくというお客まで登場して、これまでのユカタの通念が変わってしまった。ユカタは今や浴衣ではなく、遊衣なのである。この流れに乗らない手はない。百貨店は勿論量販店も一斉に参入した。4800円などという価格破壊も登場した。当然ユニクロもねらったが、百万着というオーダーに応えるところがなくて諦めたという。惜しいのはメンズに広がらないことだ。帯を腰で締めなければ粋にならないという関門が突破できず、女のユカタに男のアロハということになってしまっている。さすがにこの夏はブーム一服と伝えられているが、大橋はさらにユカタ革命の前進を構想している。ヤングファッションのメッカ、原宿ラフォーレに開いた彼のユカタ展は、入り口にユカタを着たバービー人形を並べ、なかの展示はこのための七彩工芸の新作マネキンで、あらゆるニーズに応える春夏秋冬のユカタスタイルをパレードして見せていた。

ファッションにも浸透するノスタルジー


インターナショナルファッションフェア@ 同右A 同右B 同右C
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